漫画と北国とわたし

ゴールデンカムイの考察だの感想だの聖地巡礼だのをつれづれと。本誌ネタバレ含みます。

【本誌ネタバレ含】キロランケについて語るvol.3(190話を踏まえて)

今週の本誌を踏まえてのキロちゃん語りです。つらつらと書いていますので読みにくいかもしれないです。本誌全体の感想はちょっとお休みしますね。
 
 
190話、キロちゃん死んじゃいましたね。あまりにもショックすぎて筆者、放心状態でした。やっぱり好きなキャラが死ぬとなるととてつもなく悲しいですね。ほんとしばらく泣いてました。
でも、キロちゃんの死に様と生き様には語りたいことがたくさんあったので書いてみます。今回は項目分けてみました。メモ書きな感じで思ったことをつらつらと書いています。追記するかもしれません。
 

1、キロランケとユルバルス
 
キロちゃんは最後、アシリパさんに、金塊のヒントを思い出した、と告げられて
「そうか  良かった… この旅は無駄ではなかった…」
と笑っていました。
そして樺太の旅や今までであった子供たちの顔を思い浮かべて、最後はソフィアさんの若い頃の顔を思い浮かべて死んでいきました。
アシリパさんから金塊のあり方を聞き出したりすることなくアシリパさんを心底信じて、「任せたぞ」と、未来を託して死んでいったんですが…(号泣)
樺太に行ってからのキロちゃんてユルバルス感があったというか、革命家の顔を見せることが多かったかなと思うんですが、今回の彼の死ぬ前の様子を鑑みるに彼の根の部分はやっぱり「キロランケ」だったことがわかりました。死を前にしても殺されかけても甘くて優しい人だったなと。(その甘さで命を落としてしまったわけですが…)
というか恐らくですが、キロちゃんはずっとキロランケでいる方が性に合っていたんだろうなと思うし、ウイルクはきっとそれを見抜いていただろうなとも思います。(筆者はウイルクは変わっていなくて、変わったのはキロちゃんだったんじゃないかと思っております。(詳しくはこちらの記事で→ 【本誌ネタバレ】183話感想(後編:考察(ウイルクとキロランケ)) - 漫画と北国とわたし

キロちゃんの直接の死因となった谷垣と鯉登少尉ですが、あの2人があんなにもあっさりとキロちゃんを殺せたのは軍人だからかなとか若いからかなと考えてみたのですが、恐らくそうではなくて、あの世界ではあっさりと殺せるのが大半で、キロちゃんが特殊だったような気がしています。つまり革命家として若者一人殺せないその甘さはウイルクにとっての「無駄なもの」だったんじゃないでしょうか…。

ソフィアさんのことだって、キロちゃんは「利用していた」と言っていましたが、蓋を開けてみればキロちゃんはソフィアさんのこと想っていたんですね。今まで信念のために小さな幸せを捨ててきた彼が、最後に思い出したのが、ソフィアさんの、ほんとに小さな小さな一個人の幸せだったことを思うと人となりが見えてきますねキロちゃんの。
 
杉元一行との旅、そして樺太の旅は、彼にとって楽しかったらいいなって思います。樺太の旅路は「いや結構無駄なことしたな」って最後に思っちゃってますが、その言葉の裏にはなんだか「楽しかった」が含まれているような気がしていて。恐らくそれは杉元達との旅もそうだったんじゃないかなと。杉元達に対しては心を許してたわけじゃないし結果的に裏切ったわけですが…ウイルクにはない「無駄を愛する心」を持ってるキロちゃんですから。
 
そして最後、何よりアイヌの服を着たままでアシリパさんに「キロランケニシパ」って名前を呼ばれながら死んだことが、キロちゃんは革命家「ユルバルス」ではなく優しいアイヌの色男「キロランケ」だったことを象徴しているとわたしは思いました。
 

2、走馬灯と「俺たち」
 
キロちゃんが死ぬ前の走馬燈樺太の旅の記憶と、樺太で出会った子どもたち、長谷川さんと子ども、オソマ、そして置いてきた妻子、でした。
そこで浮かんだのが子供達だったっていうのは、キロちゃんが一貫して言っていた「自分の息子たちやアシリパさん、他の少数民族の未来のための革命」だという信念を裏付けるものだったと思います。
その子どもたちの未来を「未来」の名前を持つアシリパさんに「頼んだぞ」と言って託して死んでいったキロちゃんですが、続けて言っていた「「俺たち」のために」が指す「俺たち」ってなんのことなんだろうって思ったんです。
おそらくそのまんまの帝政ロシアに潰されてしまった今まさに戦ってる仲間のことではないだろうなと筆者は考えました。
じゃあ何かって考えたらそれはもしかしたら「俺たち」は過去の自分たち、つまり今の子どもたちを意味してるんではないかと。
キロちゃんて弱者への共感力と同情心がものすごい人なので他者を自分に置き換えることが容易に出来るし、ずっとそうしてきた人だってことは今までの彼の行動から読み取れます。(谷垣にとどめを刺せなかったのもそれが原因ですし。)
なんというか…キロちゃんの「優しさ」ってそれだと思うんです。
だから「俺たち」というのは、かつての自分たち、少数民族の子どもとして生まれて、いずれその未来が潰されてしまうかもしれない、そんな弱い存在の未来を、死の間際アシリパさんに託したと。
今回190話のタイトル『明日のために』はそういうことだったんじゃないのかなと筆者は思いました。
 

3、死に様と生き様、役目について
 
ゴールデンカムイにおいて役目を全うした各人物の死に様は、そのまま彼等の生き様を語っていると感じます。
彼等は自分の役目を理解し全うすることで天に還っていくわけですが、そうして天に還った人達の死に様は少しも不幸じゃなく、むしろみんな笑って満足して旅だっていますよね。(二瓶とか、江渡貝くんとか)

キロちゃんも、自分で役目を見つけて、その役目を全うして満足して天に還りました。アシリパさんに希望の光を与えられて、アシリパさんという未来の象徴に見守られて。
キロちゃんのあの死に様はそのまま彼の生き様だったと思いますし、様々な後悔や無念はあれど、役目を果たして希望を見出したからその人生に折り合いをつけて笑って逝けたんだなぁと思うのです。
アシリパさんがキロちゃんを「志半ばにして散った不幸な革命家ユルバルス」ではなく「役目を全うし、希望を見つけて旅立ったアイヌのキロランケ」として送ってくれたわけですね。
筆者は昔書いたキロちゃん記事(【本誌ネタバレ含】キロランケについて語る - 漫画と北国とわたし)で、「キロちゃんはキラキラした光の中で亡くなってほしい」と、言ってましたが、何というかまさにそうなってくれたというか、だからキロランケというキャラの死に様としてはとても素晴らしい形だったなぁ…と泣きながら思いました。
 
 
ここまでつらつらと書いてきましたが、つまりキロちゃんの死に様は決して不幸じゃなくて、
ちゃんと光を見つけて「未来」の名前を持つアシリパさんに見送られての旅立ちだったし、
やり残した事もあるけど折り合いをつけて、自分の「役目」を果たして、「良かった」って笑って死んでいったので
……良"かっだ……!(号泣)
 

ここまで書くのに四日かかりました。
まだ書くかもしれませんがひとまずここまで。

最後に一つなんてことないこと思ったんですが、キロちゃんは9巻の江渡貝くん宅での最後の晩餐パロ絵でユダの位置に座っていたわけですが、
ユダって最後は自殺してますがキロちゃん、自分のマキリがささった=自殺ってことなんですかね。え、何それかなしい。
 
 
おわりもす。